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歴史宝箱⑥~鳴海球場跡(その2)~

◀鳴海小作争議ゆかりの地、浦里公園に立つ雉本博士の像

大正デモクラシーが野球場を生んだ

前回8/8号では、日本の野球史上に輝かしい幕開けをもたらした鳴海球場(鳴海町文木=現在の名鉄自動車学校敷地)の歴史を振り返りました。今回は歴史をさらにさかのぼり、「なぜここに野球場が生まれたのか」を探りました。

「鳴海球場の誕生には、鳴海小作争議と深い関係があります」と教えてくれたのは、「緑区の歴史を学ぼう会」の酒井隆弘さんです。

 

鳴海小作争議とは、大正6(1917)年に天候不良による深刻な凶作が起き、小作人たちが鳴海周辺の地主に対し、小作料の減免を要求したことから始まった大規模な争議のことです。
この時、小作人の一人が、当時京都帝国大学法学部教授だった雉本朗造(きじもと・ときぞう)博士に地主との仲裁を依頼します。博士は小作人側に立ち、彼らの権利向上のために力を尽くしました。
雉本博士は、大正デモクラシーの代表的な論客の一人で、この小作争議も、当時の自由主義や民本主義の広がりを背景としていると言ってよいでしょう。
争議は長期化していきました。その間、地主たちは耕地を整理し、紛争地の一部を売却することについて、愛知電気鉄道(現名古屋鉄道)に打診を始めました。同年、裁判所の仲裁により、地主と小作人の間で和解が成立しましたが、鉄道会社への売却計画はそのまま進められました。 「球場が造られた土地は、雷貝塚のすぐ近くで土地に塩分が多く、耕地としては惜しいものではなかった。一方、住宅開発を進めたい鉄道会社は、その土地に野球場を造って客寄せをしたかった」と酒井さんは指摘します。

東海道の宿場町だった頃の輝きを失っていた鳴海町にとって、野球場を目玉にした住宅開発は、再発展の大きなきっかけになったのです。
鳴海球場は昭和2年にオープンしました。(隨)

 

▲鳴海小作争議ゆかりの地、浦里公園に立つ雉本博士の像